列島文化の起源へ/ 文化人類学・民族学・民俗学・歴史人類学
岡 正雄 オカ マサオ【著】 ISBN: 4905913047 [A5判上製]504p 21cm (1979-12-01出版) 定価=本体6800円+税
本書の刊行後、その主な論文は1994年に岩波文庫版『岡正雄論文集 異人その他 他十二篇』(大林太良編)に収められたが、重要な論文「日本民族の種族史的形成」「皇室の神話―その二元性と種族的文化的系譜について」「二つの建国神話」などは、文庫版には収められなかった。著者が1933年ウィーン大学に提出した独文の学位論文『古日本の文化層』(本文5巻、写真図版1巻)はいまだ和訳されておらず、本書では「目次」のみを訳して収録した。その細目を一覧しただけでも、著者の構想力の広大な射程をみることができる。「解説」として、3篇の論文「日本民族起源論と岡正雄学説」(大林太良)、「岡正雄『古日本の文化層』―或る素描」(住谷一彦)、「岡先生とヴィーン―学説の裏づけ」(クライナー・ヨーゼフ)、および「年譜」が付されている。
【主な目次】 Ⅰ: 日本民族文化の形成(日本民族文化の重層・混合・併存性、日本島における諸民族文化、諸民族文化と先史文化との並行化)/日本文化の基礎構造(一 種族文化の再構造、二 種族文化、三 種族文化の歴史的関係、四 日本文化の基礎的性格)/日本民族の種族史的形成(曙期の採集・狩猟人、新石器時代の採集・狩猟民、タロ芋栽培民、アウストロアジア系稲作民、アウストロネジア系稲作民、ツングース系の農耕民、アルタイ系の支配者、日本民族の成立) Ⅱ: 民俗学と民族学(一 民俗学のいくつかの傾向、二 「エトノスの科学」としての民俗学と民族学、三 人類文化的レベルにおけるフォークロア研究)/日本民俗学への二、三の提案―比較民族学の立場から(一 日本民俗学の対象の問題、二 日本民俗学の課題と方法について、三 日本民俗学の性格)/日本文化成立の諸条件(一 日本列島の地理的条件、受容性と堆積性、三 混合性と多様性)/文化は文化から/民族学における二つの関心/現代民族学の諸問題/東亜民族学の一つの在り方 Ⅲ: 異人その他―古代経済史研究序説草案の控へ(フォークロアと経済史と、西宮の居籠祭、原始交易、異人、秘密結社)/異性にとざされた社会/琉球=日本における秘密結社組織―その特徴と文化史的関係 Ⅳ: 太陽を射る話/皇室の神話―その二元性と種族的文化的系譜について/二つの建国神話/産屋、他屋、寝室、喪屋、竃屋、隠居屋など/同族組織と年齢階梯制/民具について(民俗学の対象、物質文化とは何か、物質文化研究の意義、民具の研究) Ⅴ: バーン『民俗学概論』訳者小序/『日本石器時代人研究』を読みて―人種対文化論への貢献/「民族」の休刊/シュミット『神観の起源』書評/故グレェブナー教授/コッパース『人類史の問題としてのトーテム制』書評/メンギーン『石器時代の世界史』訳者序/石田英一郎『河童駒引考―比較民俗学的研究』書評/石田英一郎『民族学の基本問題』書評/岡村千秋/パージ時代の渋沢さんの思い出/持続けた反骨精神―石田英一郎さんをいたむ/ニコライ・ネフスキー『月と不死』編者はしがき Ⅵ: オーストリアの冬春の頃/ウィーン通信/二十五年の後に―『日本民族の起源』あとがきにかえて/『古日本の文化層』(Kulturschichten in Alt-Japan)目次/学説の盛衰― シュミット先生とウィーン学派
【著者紹介】 岡正雄は1898年、長野県松本生まれ。松本中学、第二高等学校をへて1920年、東京帝国大学文学部社会学科に入学、24年卒業。この年、フレーザーの『王制の呪的起源』の翻訳に柳田國男の序文を求めて訪問するが、拒絶されかつ出版に反対される。だが同時に民族学研究の志望を喜んでくれ、以後、柳田邸で開かれる木曜会への列席を許され、金田一京助、折口信夫、伊波普猷、中山太郎、早川孝太郎、ネフスキーなどの先輩を知る。また、この年、兄岡茂雄が人類諸科学専門出版社岡書院を開業。翌25年9月、柳田國男を中心に 、 民族学=民俗学の綜合隔月誌『民族』を岡書院から創刊。28年9月、折口信夫の「まれびと」論に示唆を受けた論文「異人その他」を『民族』に掲載。29年、柳田との諧調もこわれ、『民族』を休刊。渋沢敬三の好意により、ウィーン留学に旅立つ。ウィーン大学哲学部民族学科に入学。1933年、ドイツでヒトラーが政権を握ったこの年に学位論文『古日本の文化層』を提出。35年4月、帰国。38年、ウィーン大学客員教授に招かれ、ウィーンに着くが、3月、ヒトラーがオーストリアに侵攻。混乱のなか、三井高陽の寄贈による日本学研究所ができ、これを主宰。研究所にはフロイト亡命後の精神分析学研究室があてがわれる。40年、帰国。43年、文部省の直轄研究所として、民族研究所が創設され、総務部長となる。45年10月、研究所の廃庁にしたがって、長野県南安曇郡温村に引きこもり、自給自足の農生活に入る。48年、石田英一郎(司会)、岡正雄、江上波夫、八幡一郎の4人による座談会「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」を3日間にわたりおこない大きな反響を呼んだ(のち、58年に補注を加えて、『日本民族の起源』〈平凡社〉として出版される)。50年、日本民族協会理事長に就任。51年、東京都立大学教授。64年、第8回国際人類学民族学連合会会長に推される。この年、東京外国語大学教授、アジア・アフリカ言語文化研究所長に就任。73年、和洋女子大学教授。1982.12.15、死去。享年84歳。
【書評】 (蒲生正男/毎日新聞 1980.3.11) 「このように『異人その他』(註:1928年発表論文)は、日本古代経済史の再構成という、およそ十九世紀から二十世紀初頭にかけての、学史の潮流を背景とした文化史的考察が発想の根底にあった。だがその古代史の再構成は、まさに序論的問題提起の意味しかもっていなかったが、異人との対応という問題に論点をしぼることによって、現代的文化人類学の一つの萌芽をつげるものとなってきた。…問題は、どういう努力をしたら敵対に走るのではなく、連帯を導くことができるのか。現代人類学の一つの課題はそのための知恵を、地球上のすみずみから探し求めようとしているのである。『異人その他』の中での異人は、ヨソモノの存在に注目しつつあの世からのマレビトの考察にも展開し、そして日本やメラネシアの民俗資料をもとりいれた比較民族学の視野の上に立っていた。それは現代文化人類学が、世界のあらゆる人に寄与しうるにちがいない、人類の遺産である異人に対処するための知恵の体系化の、いわば原点にかかわる問題の提起でもあったのである。」 (蒲生正男/週刊読書人 1980.3.17号) 「この本の随所に、民族学的ないし人類学的研究を触発させるに充分な、さまざまな問題の提起が、泉のごとく含まれていることを指摘せずにはおれない、すぐれた論文集の公刊をよろこびたい。」 (坪井洋文/図書新聞 1980.2.16号) 「岡学説=種族文化複合論の構成する諸論文は、未翻訳の『古日本の文化層』を除いて、そのほとんどに触れてきた筆者は、体系だった形で編集された本書を読んでいくうち、あらたな感動とともに、日本人であることの重さをかみしめたのである。…柳田國男を頂点とする日本民俗学の正統と、日本民俗の文化研究に深くかかわった岡正雄の民族学とは、結果において視点なり仮説に大きな違いがあった。それは前者が単一種族文化論、後者が種族文化複合論を仮説し、両者が対立していると一般的に理解されていることを指す。結果的にそうであるが、この評価は本質的なものであろうか。…岡学説の今日的な評価をおこなった論文として、本書には…三篇が掲載されている。このうち大林と住谷の岡学説をめぐる理解と評価に重要な違いがあることに注目する必要がある。…大林は日本民族=文化の諸要素を、異種族と比較できる民族学的可能性を持ったものとして岡学説を評価し、住谷はその諸要素のもつ『意味関連を発見するための索出手段として機能すること』としていて、すぐれて民俗学的可能性の存在を指摘している。ここで岡学説のもつものは、学問的縄張り主義を超えた日本研究の新しい可能性なのだということがわかってくる。」 (上田正昭/日本読書新聞 1980.5.26号) 「本書によって、岡学説の意義と課題は、より鮮明に浮かび上ってくる。『日本の固有神道といわれるものが、実はいくつかの種族文化の信仰形態の混交したものであり』、また『純粋騎馬民族そのものとして日本列島に渡来したものとは思はれぬ』などと説くその片言隻句にも熟読すべき識見が宿る。」
【追悼文】 (白鳥芳郎/毎日新聞 1982.12.20) 「しのび寄る初冬の夜風が冷たく身にしみて、いい知れぬ焦慮とわびしさの念にかられながら帰宅した時、岡先生の訃報を受け愕然とした。思えば岡先生の生涯は、そのまま日本の民族学(文化人類学)の消長変遷を示すものだと言えるものであった。」 (山口昌男/共同通信 1882.12) 「先生が都立大学の教授であったころのある日、一九五七年の春、…日本史研究から脱出しようとしていた私が、文化人類学という学問にひかれて、…出てきた岡先生ご自身につかまって「まあ入れ」と研究室に招じ入れられて以来三十年。時には下北半島、時にはインド、ネパール、そして私がいまいる研究所の八年を含めた歳月を、師というものはこれほどたのしい存在であるかという思いにとらわれつづけて付き合わさせていただいた。…万感の思いは代わる代わる私の胸中を去来している。今はただ、先生のご冥福を祈るのみである。」
【関連年譜】 1933年 岡正雄(ヴィーン大学)学位論文『古日本の文化層』 1934年 オットー・ヘフラー(ヴィーン大学)『ゲルマンの祭祀的秘密結社』 1935年 スラヴィク(ヴィーン大学)学位論文『古朝鮮の文化層』 1936年 スラヴィク(ヴィーン大学)『日本とゲルマンの祭祀的秘密結社』(和文抄訳『日本文化の古層』未来社) *ドイツ文学の権威・オットー・ヘフラーのゲルマン戦士像は勃興期のナチスによって高い評価を受けた。しかし、利用されたのちヘフラーはあまり大切にされなかったという。最近、ドイツではヘフラーの再評価の動きがあるという。 *スラヴィクは、岡正雄の『古日本の文化層』の独語文の手伝いをし、岡の指摘する日本の祭祀結社の記述と、ヘフラーによるゲルマンの祭祀結社の記述を比較し、この本をつくりあげた。 1937年 オットー・ヘフラー(ヴィーン大学)『ゲルマン族の聖王権及び祭祀的秘密結社』 1937年 石田英一郎、帰国した岡正雄と出会い、この年渡欧してヴィーン大学哲学部民族学科に入学。〈馬の文化史的研究〉をはじめる。(石田の仕事については、山口昌男『河童のコスモロジー―石田英一郎の思想と学問』講談社学術文庫がおもしろい) 1938年 スティグ・ヴィカンデル(ウプサラ大学) 『アーリヤの男性結社』 (和訳、檜枝陽一郎 言叢社) *ウプサラ大学からミュンヘン大学の講師となったヴィカンデルは、この頃ミュンヘン大学教授に転じたオットー・ヘフラーの論に大きな影響を受けた。 *ウプサラ大学でヴィカンデルと接したデュメジルもヘフラーの影響を受け、印欧神話の三機能説を提唱することとなったのでは、との思想史的判断もだされている(イタリアの歴史家・ギンズブルグを参照のこと)。 1940年 デュメジル『ミトラ・ヴァルナ』 *これらの著作発表の年代からみても、ヘフラーの仕事はヴィーン学派のスラヴィクらに影響を与えるとともに、印欧神話学に大きな影響を与えており、二つの流れの結節をなしていることがわかる。 1946年 ネリー・ナウマン(ヴィーン大学日本研究所)学位論文『日本の信仰と習俗における馬』 1948年 石田英一郎『河童駒引考』(筑摩書房) この年、岡正雄・八幡一郎・江上波夫・石田英一郎(司会)による討論会、「日本国家の形成と皇室の種族的=文化的系統」及び「日本民族=文化の源流と基盤」がおこなわれ、58年『日本民族の起源』として平凡社より刊行される。 1963~64年 ネリー・ナウマン『日本の山の神』(独文、『エーシアン・フォークロア・スタディーズ』南山大学に掲載。和訳は、1994年に『山の神』 の名で言叢社より刊行) *これらの年譜から岡正雄、石田英一郎、ナウマンの間にも、学史的な関連のあったことがうかがえる