随筆・小説・歌集・俳句集
黄 霊芝 コウ レイシ【著】 ISBN: 4905913888 [A5判並製]325p 21cm (2003‐04‐15出版) 定価=本体2800円+税
◇いまも美しい日本語をつむぐ、台湾人による俳句文芸の宇宙。「なつかしくて、新しい」「声を出して読みたい」 ◇台湾のこよなき案内書。 ◇「台湾俳句」は、麗しき島(フォルモサ)「台湾」の日常・風物を個性的な感性で言葉に定着した「台湾独自」の短詩型文学です。 ◇台湾/台北俳句会では、日本の季節感にもとづく季語とは異なる「台湾季語」を創設し、月例の俳句会ではこの季語を詠みこんだ日本語俳句を創ってきました。この本は、台湾の風土、風物,人事をあらわすにふさわしい季語396について、著者無類の洒脱でうつくしい日本語による解説が付され、台湾俳人による例句が各9句掲げられています(季語目次・季語索引付)。 ◇これまで、日本のたくさんの俳人たちが台湾を訪問、台北俳句会との国際交流句会が開かれ、日本語俳句による新しい国際交流が育ってきています。 ◇口絵カラーと季語を表現するカラー図版180余点を収録。言葉と映像によって、島国・台湾の人情と感性、こころの表現世界がおのずと伝わるように構成しました。 ◇朝日新聞「天声人語」、同新聞・関西版(音谷健郎氏)、同新聞・日曜俳句「風信」欄、共同通信社配信書評(辺見じゅん氏)、読売新聞「顔(若山樹一郎氏)」欄、産経新聞「産経抄」、同新聞書評欄・投稿記事、東京新聞読書欄、毎日新聞「詩歌の現在」欄、日本工業新聞、図書新聞(皆川燈氏)、『NHK俳壇』『俳句朝日』『俳句α』『月刊日本』『台湾協会報』その他、多くの俳句誌、台湾関係誌に書評と紹介がなされ、2004年11月7日、著者は本作品によって第3回「正岡子規国際俳句賞」を受賞した。
【台湾俳句歳時記・全体構成】 季語総数三九六、季語解説・例句、台湾俳句について、カラー図版、季語索引付。 自序/全体目次/季語目次/凡例/口絵カラー(写真・村田倫也) 人事(年末年始/暖かい頃/暑い頃/涼しい頃/寒い頃/カラー図版) 自然・天文地象 自然・植物(暖かい頃/暑い頃/涼しい頃/寒い頃/カラー図版) 自然・動物(暖かい頃/暑い頃/涼しい頃/寒い頃/カラー図版) 解説 戦後の台湾俳句~日本語と漢語での 台湾歳時記と台湾季語 あとがき/季語索引
【著者紹介】 黄 霊芝 (1928年~) 台湾台南市に生まれる。台北俳句会会長。作家、彫刻家。『黄霊芝作品集』19巻。編著『台湾俳句集』30巻がある。私家版『黄霊芝作品集』巻一の自己紹介には、台湾美術協会会員、「笠」同人(新詩)、「台北歌壇」会員(短歌)、台湾蘭芸協会委員・副総幹事(園芸学会)、峯山美術賞その他数種の美術賞を受く、第一回呉濁流文学賞受賞。その青年期からの多彩な活動の姿がうかがわれ、作品集には、日本語による小説・俳句・短歌・詩・童話・民話・評論・随筆・論文など、おどろくほど多様なジャンルにわたっている。 かつて考古・民族学者の国分直一氏を中心として刊行されていた雑誌『えとのす』(新日本教育図書刊行)では、台湾の民俗から中国古代(ことに玉器研究)までの広範な研究を日本語で発表している。私家版作品集の多くは入手できないが、吉備国際大学の岡崎郁子教授が編纂した小説集『宋王之印』が著者の少年時のペンネーム・国江春菁の名で刊行されている(慶友社刊、2002年)。
【編集者の一言】 本書は、日本の俳誌『燕巣』に9年にわたって書き続けられたものに手を入れ、さらに1年、一字に精魂を込め2年の重ねての校正を経て刊行にこぎつけたものです。 著者は、なぜそれほどに日本語の彫塑に情熱を傾けるのか。著者の幼少年期の生活感覚と教養は日本語の表現によって育てられたといいます。ところが、多感な青春の時期に、50年にわたる日本による台湾統治の時代は終わりを告げ、代わって台湾を支配した国民党政権は日本語を禁圧し、台湾漢族の言葉であるミンナン語(福建語)は学校では教えられず、北京官語による教育を徹底して進めました。著者の親たちは日本語を学ばせられた世代だったのに、こんどは北京官語が公の言葉となり、皮肉にも成長期に自然に学んだ日本語が禁圧されてしまったのです。そこでは、日本語の言語感覚とともに生きていた内面の感性を圧しころし、これをうまく流露できなくなってしまうといった事態も生まれました。そのような中で、黄霊芝氏は戦後も一貫して日本語による文芸表現を続けてきました。数多くの名作がふくまれている短編小説や、俳句、短歌、詩などのほとんどは日本語の表現によっており、いわば日本語を「日本人」の言葉とみなさず、自分の内面の表現にとって欠くことのできない「普遍のことば」として表現してきたといえます。 著者・黄霊芝氏は、この本を一個の文芸作品として創造しようとしました。その解説は、あたかも詩句を創造するように、視覚と韻律をもって彫塑されています。声をあげて読んでみると、そのことがとてもよくわかるように、自在でユーモアにあふれた見事な日本語文芸の表現となっているのです。 氏は、みずから台湾季語を創造するとともに、その解説および例句をあわせた構成によって、自分にとっての内的言語である日本語によって「文学的宇宙」を創造したのです。この試みは、日本とおなじような「島国」である台湾人が幼少年期に受けとった日本語の文化を、孤高のうちに研ぎ澄ませて成った驚くべき「普遍文学」の作品といえましょう。 本書の台湾日本語がもつ不思議さは、戦前のやわらかい日本語文化が純化されて残されているのみならず、この純化された日本語文化が「台湾」の生活文化から汲みあげられた風物、季節感、色彩、諧謔、愉しさなど、深い規矩をもった独特な表現世界を獲得しているところにあります。 台湾で育まれた日本語文芸が、わたしたちの日本語経験にどんな新しさを加えることができるか、季語解説と例句をすこしずつ愉しみながら読んでいただければとおもいます。
【書評】 (朝日新聞「天声人語」 2003年11月3日) 《▼今春には、『台湾俳句歳時記』(言叢社)が出た。「暖かい頃」「暑い頃」「涼しい頃」「寒い頃」に分けて台湾独特の行事や風物を解説し、例句も添える。」「▼著者の黄霊芝さんは『私は日本語で「妻を罵るが、戦後派の妻は台湾語でまくし立ててくる。すると戦後生まれの娘が中国語で喧嘩両成敗に乗り出してくる仕儀だ』。この多言語家庭は、まさに歴史のなせる業である。」「▼孤蓬万里さんは1926年生まれで、黄霊芝さんは28年生まれである。自分たちで台湾の日本語詩歌はほぼ途絶えるだろうと思っている世代だ。その思いは、どんなに複雑で痛切であることか。》 (共同通信配信 辺見じゅん著 2003年5月) 《「私は終戦により文盲となった」と言う。日本の敗戦により、台湾は中華民国に返還され、政府が日本語を禁止したからだ。しかも、すでに文芸の道を歩むと思い定めていた著者は、…一命を賭して日本語の表現者であり続けた。…なぜ、こうまで日本語にこだわり通したのか。…「日本語でしか自分の世界を表現できなかった数々の台湾の戦前の作家たちの、その後に強いられた唖の無念さが私には堪えられないのである」その無念さの思いが、「台湾俳句歳時記」に結実されている。その意味で本書は、歳時記の体裁をかりつつ、著者の人生を反映させた文芸作品といえよう。」「本書が従来の歳時記と際立って異色なのは、三百九十六の季語の選定ばかりか解説まで一人でなされたこと。その執念と気迫はまさしく、創作と呼ぶに値する。いわば歳時記の創造である。日本独特の歳時記の形式が、異文化を盛りうる器となることを、黄 霊芝は見事に証明した。》 (読売新聞 台湾支局・若山樹一郎 2003年8月6日) 《「烏魚子」「臭豆腐」など三百九十六の季語を独特のユーモアや皮肉もちりばめて解説し、ユニークな台湾民俗誌にもなっている。」「日本統治下の台湾で、旧制中学三年まで日本語教育を受けた。芥川龍之介らの影響で作家を志したが、戦後、台湾社会は中国化し、発表のあてのないまま、日本語で創作を続けてきた。二十歳で書いた小説「蟹」を中国語に訳し世にだしたのは、四十歳の時。路上生活者の飢えと死を描き、台湾で最も権威のある「呉濁流文学賞」の第一回受賞作になったが、その後も日本語にこだわった。…「台湾で日本語小説をかきつづけているのは、もう私一人でしょう。私の中には、日本と台湾が同居している。作品も『二重国籍』かも知れない」。…畑仕事をこなしながら、これまでの作品に手を入れる毎日だ。「『論語』も『詩経』も元は一冊だけだった。千年後に一冊でものこってくれればいい」と静かに語った。》 (図書新聞「らん」同人・皆川燈 2003年8月16日) 《「台湾には幾ら写真を撮っても何も写らない部分がある。炎(ほむら)のような、影のような…または風でもあり呻きでもあり…そして無のようなそれでいてでんと居坐る図太いもの…それを風土として育ったのが台湾の文芸なのだ」言葉は同じ表現活動の「道具」でも、絵の具や楽器とは異なると思う。そこにさらに「俳句」という形式がもちこまれたことは、台湾の詩にとって、しあわせなことだったのか、不幸なことだったのか私にはわからない。いずれにしても、この歳時記がかけがえのない貴重なものであり、少なくとも日本で俳句に関わるものにとって重い問いかけとして存在していることだけはまちがいない。」「雷公祭、一点紅、愛玉水、夜市、月桃、人心果、基隆雨…こうした季題の漢字からたちのぼる懐かしさにつながっている。」「どの季題解説を読むだけでも、あるいは凡例を読むだけでも、著者の思いが切々と伝わってくる渾身の労作である。たっぷりと添えられた口絵写真からも南国の濃密な風が吹いてくるようだ。》 ◎その他書評多数