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既 刊

表象交通論/信と倫理の根源へ/現代思想/ 神話・宗教系/現代社会・制度

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論註と諭 ロンチュウトユ

●論註と喩

吉本隆明 ヨシモトタカアキ【著】
ISBN: 4905913017〈1090-1001-2020〉
[四六判並製]187p 20cm
(1978-09-05出版)
定価=本体1200円+税

§著者の思惟と思念の到達点ともいうべき書き下ろし二篇
「親鸞論註」「喩としてのマルコ伝」を収録。

親鸞と原始キリスト教の思想の精髄をみごとに捉え、現代の信と不信の状況の根源に垂鉛をおろす黙示録的思想書。「本稿を書きながらしばしばわたしはヘーゲルの『エンシクロペディ』とエンゲルスの『フォイエルバッハ論』とニーチェの『道徳の系譜』とを思い起こした。善悪の現状とその起源といったものにたいして、かれらが考察したように、わたしもまた善悪の現状とその起源を考察したかった。わたしの取り上げた対象はこの問題にたいして、宗教以外の形態で思想が不可能であった時代に、善悪の起源とその了解に関してそれぞれの洋において極限を提示したものである。」(著者、あとがきより)

【目次】
親鸞論註
喩としてのマルコ伝
あとがき

【著者紹介】
吉本隆明(1924年~2012)
吉本隆明(1924年~2012年) 日本の社会と思想、文化の〈情況の総体〉に対峙する方法的態度を一貫して編みつづけてきた詩人・思想家。東京・月島生まれ。佃尋常小学校、37年、東京府立化学工業学校応用化学科入学。この頃、今氏乙治の私塾に通い、詩作をはじめる。42年、米沢高等工業学校応用化学科入学。44年、東京工業大学電気化学科入学。徴用動員により富山県日本カーバイト魚津工場へ行き、ここで敗戦をむかえる。敗戦に衝撃。48年、工業大学を卒業して絶縁スリーブ工場、化粧品工場に1年余就職したが職を追われる。50年、特別研究生として東京工業大学無機材料化学教室にもどり、稲村耕助助教授に就く。52年、東洋インキ製造青砥工場に勤務。詩集『固有時との対話』私家版。53年、詩集『転位のための十篇』私家版。56年、同社を退職(あるいは脱職)。恋愛、結婚。57年、長井・江崎特許事務所へ隔日出勤。『高村光太郎』。59年、『芸術的抵抗と挫折』、『抒情の論理』。60年、安保闘争時、六月行動委員会に参加。共産主義者同盟主導下に行動。『異端と正系』。61年、谷川雁、村上一郎と『試行』創刊。62年、『擬制の終焉』。63年、『吉本隆明詩集』、『丸山真男論』。65年、『言語にとって美とはなにか』の『試行』連載を完了、刊行。つづいて、『心的現象論』によって個体の幻想性についての一般理論の創造を試みる。66年、『カール・マルクス』『自立の思想的拠点』。68年、『共同幻想論』。71年、『心的現象論序説』、『源実朝』。76年、『最後の親鸞』。77年、『初期歌謡論』。78年、『戦後詩史論』。82年、『源氏物語論』。85年、『重層的な非決定へ』。87年、『超西欧的まで』。89年、詩集『言葉からの触手』、『宮沢賢治』、『ハイ・イメージ論Ⅰ』。90年、『ハイ・イメージ論Ⅱ』、『柳田国男論集成』。92年、『良寛』。95年、『超資本主義』、『母型論』。97年、『大震災・オウム後 思想の原像』。98年、『アフリカ的段階について』、『遺書』など。99年、『少年』。2000年、『写生の物語』、『吉本隆明が語る戦後50年』(全12巻)刊行開始。2001年、『幸福論』、『心とは何か―心的現象論入門』『悪人正機Only is not lonely』。2002年、『夏目漱石を読む』、『老いの流儀』。2003年、『現代日本の詩歌』。2004年、『「ならずもの国家」異論』、『漱石の巨きな旅』、『戦争と平和』。2005年、『吉本隆明「食」を語る』、『中学生のための社会科』。2006年、『詩学叙説』、『生涯現役』。2007年、『思想のアンソロジー』。2008年、『日本語のゆくえ』、『心的現象論・本論』、『貧困と思想』(以上、おもな著作のみ)。全集に、『吉本隆明全著作集』全15巻、『吉本隆明全著作集(続)』(6・8・10巻のみ)、『吉本隆明全集撰』(7巻の内、6巻刊行)、『吉本隆明全対談集』全12巻、『吉本隆明 信の構造三部作』など、いずれも、刊行時までの著作による集成。2014年12月より筑摩書房から『吉本隆明(未収録)講演集』全12巻が刊行され、2014年より晶文社にて『吉本隆明全集』全38巻別巻1を刊行中。

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【書評】
(松岡俊吉/毎日新聞 1978.11.6)
「思想が情況に面してどのような関係の総和を強いられるか。親鸞とキリストという祖述者をこうして並置してみると、その相似性に気づくのである。『親鸞論註』『喩としてのマルコ伝』という二編はもちろん『最後の親鸞』と『マチウ書試論』という二著のそれぞれの延長上にあるが、とくに後者の対比は、二十年の歳月がもたらす関係の位相の変化を示している。『論註』はむしろ先著の総括ともいえるだろう。…キリストも親鸞も予約された言語に強いられる存在として、自己否定に駆り立てられる絶対者なのだ。ここで追求されているのは『関係の位相』であって、史実論は内部に揚棄されているという含みも、いくらかはうかがえる。

(磯田光一/1978)
「主観的な意志が内面化したドグマへの忠誠を極限まで引っぱっていくとき、そこにどういう現象が起るかを、客観的な視角で究明しているのが、ほかでもない『喩としてのマルコ伝』であるからだ。悪人正機の自己増殖が憎悪論を生み出す以上、特殊的な病が『罪』という名で内面化され普遍性をもってしまうと、『罪』-『救済』という連関を包んだドグマは、客観性をもとうがもつまいが、信仰者の共同性の上に無限に自己増殖をつづけていくしかない。…主観的な意志によるドグマへの忠誠は、その実現過程で家族共同体に背くだけではない。忠誠の度合いに応じて背教者をつくり出していかなければドグマは完成しない。」

(遠丸 立/図書新聞 1978.11.4号)
「私は『喩としてのマルコ伝』を一篇の詩を読むようにして読んだ。この文体には軽みが出ている。スピード感があるのだ。何かこう老練なマラソン選手の走行を目送りするような、リズミックな雰囲気が読者に伝わってくる。」

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