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既 刊

●縄文図像学Ⅰ 表象の起源と神話像【品切れ】
●縄文図像学Ⅱ 仮面と身体像

表象交通論/列島文化の起源へ/考古学系

縄文図像学 Ⅱ 2 カメントシンタイゾウ

Ⅱ 仮面と身体像

縄文造形研究会【編】
ISBN: 4905913306
[A5判並製]360p 21cm
(1989-04-01出版)
定価 2630(本体2505) 円

§ヘンツェ、ナウマンの先史図像解釈学を紹介しながら、縄文文化遺物の図像論理とその解釈にとりくんだ先駆的論集。

【目次】
「新しい皮膚」による再生祭式(カール・ヘンツェ著、檜枝陽一郎訳)/逆剥―天の斑駒を「逆に剥ぐこと」(ネリー・ナウマン著、檜枝陽一郎訳)/アステカ帝国における人身供犠―剥された皮による祭式について(越川陽一)/ヘンツェ・ナウマン論文の解説と補足(檜枝陽一郎・島 亨)/合鹿椀写し―奥田達朗の椀(八木橋信吉)/〈土器身体〉の論理像―縄文論1(島 亨)

【書評】
縄文造形の経験の解読のために
(渡辺公三/読書人)
私たちの多くが、ささやかなコレクションの宝箱からとりだして、小さな土器片の不思議な文様を指でたどったり、半透明の黒い矢じりの鋭い稜と中央の丸みを帯びた厚みを計ったりした記憶をもっている。それは、自分の発する言葉が、たとえ嘘を含んでいても時には人を動かすこともあり、自分の指先から紙の上に思いもかけない異貌の形が描き出されてくることもあるといった、それまでは未知だった、自と他の関係に関わる新しい経験の質を自覚し始めた時期の記憶と重なるように思える。自と他の新しい経験に促されるようにして私たちは、自と他を包摂すると目される「人間」という観念や、自と他をいやおうなく直面させる「身体」という観念や、関係を生成する「性」という観念に導かれる。その時期に私たちが初めて出会う石器や土器の、私たちの幼い想像力の及ぶさらに向こうの過去の異界から届けられた造形は、私たちをどう捉え、私たちにどのような「他者」の存在を告げ知らせているのか。『縄文図像学 Ⅰ、Ⅱ 』に収められた11篇の、多彩で、それぞれきわめて個性的な論考から受け取られる問いの主調音を、ひとまずそのように要約してみたい。

こうした問いを、未熟な出発点として、知識の深まりとともに捨てるのではなく、造形されたものの初発の豊かな「経験」として保持するという姿勢がこの論集にはある。それが評者自身のように考古学の知識も、まして縄文文化についての知見もない者にも「構える」ことなしにこの論集を読み、自由に触発される可能性を開いてくれている。論述の多様で柔らかなスタイルそのものが、たとえばくりかえし現れる「狢沢」「勝坂」「海戸」「井戸尻」「尖石」「曽利」「亀ケ岡」といった独特のたたずまいをもった、かすかに懐かしい遺跡名をふと、縄文時代からそこに生き続ける地霊の呼び名とも錯覚させる、そうした力をもっている。だからといって、それは主観的で恣意的な独断の列挙なのではない。その姿勢はいくぶん謙虚に、しかし挑戦の意図をこめて「批評の方法」として提示されている(Ⅰ 「論集の刊行にあたって」、また批評の内容はとりわけⅡ 「〈土器身体〉の論理像(二)」 )。より厳密にいえば、「…わが国の言語表現論の達成を手がかりとし、いくらかの西欧の造形表現論や図像学を参照しつつ、一般的な造形表現論とわが列島の造形を扱いうる諸媒介概念を創出する試行」として示されている。それは、「異常な緻密さと共に体系的な混乱に達して」いる「編年論を中心として発達してきた縄文土器の分類学」をいったんカッコに入れ、初発の経験にたち帰って、私たちとは切り離された対象物の「科学的」分類の論理ではなく、造形の生きた、そして「生きられた」論理をさぐりあてる図像学の試みといえる。しかし、縄文人によって「生きられた」造形の論理は、いうまでもなく縄文人になりかわって「内側から」理解しうるといった種類のものではない。論集全体が、そうしたかぎりなく独断に近い対象への自己移入とは正反対の方法の探究となっている。それはむしろ縄文の造形にひきよせられてどこまで自己を異化するかという試みである。あるいは私たち自身から離脱して、縄文造形において働いている身体意識へと向かう試みである。

こうした指向は、編年によるさかしい分類を、石のマッスの形そのものによって超えてしまう丸石神の存在感への注目(Ⅰ 「丸い石-ひろわれた神」)、中国古代の魚の表象をてがかりに縄文中期の円筒土器そのものを天地創造神話の造形とみる視線(Ⅰ 「地平線上の世界魚-縄文中期の円筒宇宙について」)、ヨ-ロッパ先史時代の造形にみえる対表象の意味の可能性をくまなく照射する試み(Ⅰ 「事物の由来と繋留-旧石器の造形表象に触れて」)として多方向に展開されている。造形経験の生成の場としての身体意識は、相対する「もの」との関係で分節されこまやかに解析される。それは土偶(縄文中期)を形づくる土のマッスに投射された身体意識であり(Ⅰ 「土偶造形の初源」)、また文様を描く面をマッスの表面としてとりだす身体意識であり(Ⅰ 「縄文土器の文様剥奪に関する覚え書き」)、器の扱いの中で器によって触発される身体意識である(Ⅱ 「合鹿椀模し」)。 Ⅰ の諸論で縄文造形に接近する切り口として提示された、マッスの表面と身体と器という視点はⅡ ではやや意表をつくしかたで結びつけられ、縄文晩期の特異な身体像に光をあてることになる。Ⅱ の冒頭の三論文(「《新しい皮膚》による再生祭式-古代中国・オセアニア・アメリカ」、「逆剥-天の斑駒を『逆に剥ぐこと』」「アステカ帝国における人身供犠-剥がされた皮による祭式について」、最初の二論文は、日本ではあまりとりあげられてこなかったヘンツェとナウマンの論文の訳)は、ある説得力をもって、縄文晩期の身体像が、人身供儀の剥がされた皮膚をまとって祝われる古代アステカのシペ・トテック神の身体像などにつながりうるものであることを示唆する。この一種異様な身体像の衝撃は、「…私たちがこんにち〈個性〉とか〈人格〉とかみなしている個体としての人間身体の像が、ほとんど〈皮膚(外皮)の像〉に帰してしまうのではないかというひそかな実感を表沙汰にしてしまうこと」からくるように思われる。こうして縄文造形の身体意識の解読は、私たち自身の日常的な身体観の異化作用を誘い、また縄文図像学という試みは、精神医学などにも通底する人間認識につながりうる広がりをもつ可能性を示している。

なお、諸論文に付された豊富な図版と写真が、図像学本来の見る喜びと楽しみを与え  てくれていることを書き添えておきたい。

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